軍師官兵衛のヒール赤松政秀。この赤松家というのは室町時代のビッグネームだったんですね。
もうドラマでは滅びてしまったし今さらではあるんだけど
室町幕府の名門10家
室町幕府は将軍足利家を筆頭として、三職七頭と呼ばれる10家が幕政に参加する仕組みになっていました。
三管領 斯波家、細川家、畠山家
四職 赤松家、一色家、京極家、山名家
侍所所司 土岐家
政所執事 伊勢家
関東管領 上杉家
三管領を三職、それ以外を七頭として三職七頭と呼ぶほかに、三管領と四職を合わせて三管四職と呼ぶこともありました。
特に中央の政治に加わったのが上にも書いた三管四職で、これら名門家の当主が管領と侍所頭人という重要な役職に就くことになっていました。
管領
幕政を取り仕切る役職。
三管領の斯波家、細川家、畠山家が交代で就きました。
覚え方は「しば(斯波)のはたけは細かった」
侍所頭人
幕府の軍事面を取り仕切る役職。
四職の京極家、山名家、赤松家、一色家が交代で就きました。(土岐家もこの侍所頭人ローテーションに入っていたらしく、四職ではなく五職とする説もあり)
覚え方は「京都の山は赤一色」
というわけで軍師官兵衛ではヒールなイメージが付きまとう赤松の名ですが、元は室町時代の名門家だったんですね。
ご存じのとおり、応仁の乱以降は幕府の力も衰退していき、これら名門家も衰退の一途を辿ります。先の10家のうち戦国大名として名を馳せたのは上杉家ぐらいじゃないでしょうか。ただし上杉謙信も守護代である長尾家の出身です。
ヒール赤松政秀のポジションは?
というわけで当時のビッグネームだった赤松。
では、ドラマでは完全なヒール役だった赤松政秀はどういうポジションどうだったのか???
実は政秀は赤松宗家の9代当主政則の庶子(婚外子)が父親ということで、名門赤松の姓ではありますが本家ではないんです。龍野城主だったため龍野赤松家などと呼ばれたりします。
では本家との関係はどうだったのかというと、自分と同世代の赤松宗家11代当主晴政をしっかりと支えていたようで、本家との関係は良好でした。ただ、宗家12代当主義祐が浦上家にそそのかされ父晴政を追放してしまうんですね。ここで政秀は晴政を助けたため赤松宗家と対立する形になるわけです。
つまりヒール政秀としては宗家を支えてきたのに、宗家の父子が仲違いしてしまったから、これまでの経緯から父を助けた。その結果、宗家と対立する形になってしまった。それが赤松宗家と龍野赤松家の対立の原因だったようです。実際には浦上家が赤松宗家を裏で操ってるので、赤松宗家・浦上家vs龍野赤松家という構図になるのかと。
龍野赤松家と赤松宗家の対立から紐解く軍師官兵衛
実は黒田家の主君小寺政職(赤っパナね)は赤松家の家臣だったんです。
この辺りはドラマをシンプルにするために端折ってるんだと思いますが、この事実と先に書いた赤松宗家・浦上家vs龍野赤松家の対立構図を組み合わせてみると、ドラマの中で腑に落ちなかった部分が少し見えてきます。
青山・土器山の戦いの対立構図
こちらのエントリで触れましたが、第5話で描かれた青山・土器山の戦いの対立構図。
ドラマでは単純に黒田と龍野赤松の小競り合い程度で描かれていましたが、実際には織田・別所・龍野赤松・宇喜多連合と赤松宗家・浦上・小寺連合の対立で考えられています。
小寺家がどういう流れで赤松家から独立したのか分からないけど仲違いによる独立ではなかったようなので、小寺家が赤松宗家に加担するのは自然な流れと言えます。また、四職名門家である赤松宗家と新勢力の織田信長の対立というのも、これは勝手な深読みなんですが、守護大名と戦国大名の対決と考えると自然な対立構図のような気がします。
浦上は新勢力で戦国大名サイドのような気がしますが、赤松宗家の若い投手を裏で操ってるだけで、ここは守護大名サイドと考えていいでしょう。
円満が幼少時の官兵衛に接していること
こちらのエントリで書きましたが、ドラマで龍野赤松家に仕える円満という和尚さんが出てくるのですが、史実ではこの円満和尚が官兵衛の幼少期に非常に大きな影響を与えています。
多分なんですが、小寺家がまだ赤松家の家臣だった頃、小寺家の家臣である黒田家も赤松家に出入りしてたんですね。その関係で赤松に通じる円満和尚のお世話になっていたのかと。
その後、円満和尚は赤松宗家の父子対立の関係で赤松宗家から龍野赤松家に出入り先が変わったんだと思います。