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【軍師官兵衛予習】利休切腹と秀次事件

いよいよ残すところあと10回となった軍師官兵衛

百姓上がりコンプレックス殿下がいよいよ制御不能になってきましたね。

その象徴的な出来事が次回かその次くらいに出てくる利休切腹と秀次事件。

というわけで、ちょっと予習しときましょう。


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利休の切腹

千利休の切腹は秀吉晩年の愚行の一つと言われています。天下人に成り上がった秀吉と茶聖と称えらえた利休。互いに譲れぬ意地のぶつかりあいで起こった悲劇。ただ衝突のきっかけがイマイチ分からない。

有力な説としては、やはり大徳寺の利休の木像ですね。大徳寺の門の二階部分に利休の木像を設置し、その下を秀吉に歩かせたことで不敬を問われたという話。ちっちぇえ、、、秀吉、マジでそんな理由で70歳の老人に切腹を申し付けたのかよ、、、(;´・ω・)



あとは自分の立場を利用して茶器を高く売りつけたりして私腹を肥やした罪に問われたって説が有名。当時の70歳つったら老い先短いし、詫び寂びの達人が金儲けに走るのは考えにくい。晩年の秀吉と利休は結構対立してたっぽいので言いがかりつけられた可能性もあるかな。

成金の権化と詫び寂びの達人じゃ、馬が合わないのは当たり前。あとは利休の高弟、山上宗二の処刑も対立のきっかけらしい。耳と鼻を削ぎ落してから打ち首とかやり過ぎだろ。。。(;´・ω・) この山上宗二って人も相当頑固者で曲がったことが許せない性格だったらしい。

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そんなワケでドラマ『軍師官兵衛』でも秀吉と利休は徐々に対立してきてますが、次回かその次辺りで対立が頂点に達すると思います。




秀次事件

そしてもう一つの秀吉晩年の愚行が秀次事件。

理由は諸説あるけど、やはり秀頼誕生が一番怪しい。そもそも秀次が秀吉の後を継いで関白になったきっかけが鶴松の死亡なんです。豊臣家待望の世継ぎが齢三歳にして亡くなり、さすがにもう秀吉も実子にこだわってはいられなくなり、そこで白羽の矢が立ったのが秀次なんですね。

秀次が関白に、秀吉が太閤になるワケですが、ここでなんと、、、秀吉の実子が生まれちゃうわけです。そう、豊臣秀頼です。

応仁の乱のきっかけの一つとなった室町幕府8代将軍、足利義政の継嗣争いを思い出させる話です。まぁ、秀吉には足利義政のような優柔不断さがなかったってことでしょうか。邪魔になった秀次が始末されたんじゃないかと思ってしまうわけです。

突然謀反の疑いをかけられた秀次は出家したにも関わらず切腹を言い渡されます。普通は出家すれば命は助かるものなんですが、タガが外れた秀吉にはそんな常識は通じない。

あとこれは利休にも言えることですが、秀次は切腹をしたにも関わらず晒し首にされました。備中高松城主、清水宗治の潔い切腹に感服したはずの秀吉が自ら築いた切腹の名誉を汚してしまうわけです。

まぁ、こんな話もあるみたいですが、、、
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/131117/wlf13111720580036-n1.htm


それから秀次事件ではさらに常識破りがあって、当時の慣例では女性は助かることが多いんですが、秀次事件では多数の側室や侍女も処刑されました。信長の再来って感じですかね。

そして処刑された側室の中には東国一の美女と言われた駒姫もいました。駒姫は東北の大名、最上義光の娘で当時まだ15歳という年齢。そして実際には側室になる直前だったということで、そういった諸々の事情を鑑みれば助命されるはずなんですが駒姫は処刑されてしまいました。この事件が後に最上義光を徳川方へと傾かせ、出羽山形藩57万石の藩祖になるわけです。



つーわけで、恐らく次回か次々回の『軍師官兵衛』でこういう悲劇が描かれます。ここまでのドラマの流れから、秀吉単独の判断ではなく石田三成の暗躍による悲劇として描かれそうですが、実際のところ謎が多い二つの悲劇です。




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